8月15日は73回目の終戦記念日です。当時を知る人が少なくなる中、東京都内でも戦争や空襲の記憶を語り継ぐ取り組みが進められています。
三鷹市の正木安喜子さん(85)は小学6年生の時、東京大空襲を経験しました。正木さんは「防空壕(ごう)に入り、入り口から空を見たら、まるで手が届くぐらいのところにB29がいて、焼夷(しょうい)弾が斜めに落ちてきた」「30人から50人ぐらいがキャーキャーと逃げ惑っていて、煙でもくもくとなっていた。私はすぐに酸素欠乏になってしまって、はあはあと肩で息をしていた」と振り返ります。
東京大空襲は太平洋戦争末期の1945年3月10日に行われたアメリカ軍の無差別爆撃で、現在の江東区や墨田区など下町を中心に、10万人もの民間人が亡くなったとされています。アメリカ軍の空襲は終戦間際まで続き、全国で40万人以上が亡くなったとされていますが、正確な人数は分かっておらず、国による被害の補償はいまも実現していません。
こうした中、空襲を経験した人が次々にこの世を去っています。6月に87歳で亡くなった星野弘さんは中学生の時に東京大空襲を経験し、親族を亡くしました。星野さんは2007年に東京大空襲訴訟の原告団長となり、空襲の被害に遭った人や遺族に対する国からの救済を求め、提訴しました。星野さんは当時、「この機会を逃したら、もう体験者はいなくなる。心を一つにして、事実を法廷の場で明らかにしたい」と話していました。しかし、裁判は最高裁まで進んだものの、星野さんらの訴えは認められませんでした。司法による救済はかないませんでしたが、星野さんは「裁判は負けたが、中身としてはわれわれの主張が通っている」と前を向き、新たな法律を作って救済してもらいたいと、国への働き掛けを続けました。
戦後70年の節目には超党派の国会議員連盟が立ち上がり、立法による空襲被害の救済に向けた協議が始まりました。その後、障害が残る空襲被害者への補償を中心とした法案の骨子がまとめられ、法律制定の実現に向けた話し合いが進められています。空襲議連の2代目会長の河村建夫衆院議員は、2017年3月の院内集会で「この国会で出したいと思い、本格的な法案の作成に取り掛かりたい」と発言しています。
星野さんは2017年3月、取材に対し「大変困難だが、大変力強く感じて、歩みを進めていこうと毎日考えている」と語っていました。しかし、星野さんは救済法案の行方を見ることなく、87年の生涯を閉じました。
いま、星野さんが顧問を務めていた江東区の東京大空襲・戦災資料センターでは、空襲の記憶を後世に引き継ぐ取り組みが進められています。早乙女勝元館長は「いよいよこれから戦争の直接的な語りは無理になり、追体験の時代に入るかと思う」と語り、小学生の時に空襲を経験した正木さんも、子どもたちに空襲のありのままを伝えたいとしています。空襲経験を子どもたちの前で語った正木さんは「子どもたちは、戦争の話を聞いてもなかなか分からない。あまりにもはるか昔でしょ」としつつ、「空襲を知り、伝えられる人も少なくなっている。やはり伝承していかないといけない」と話します。
正木さんの話を子どもたちは真剣な表情で聞き、「空襲の体験者は減っている。こういう講和は大事だと思った」「自分の知らないこともたくさん学べた。後の人たちにも語り継ぐことが大事だと分かった」などと感想を話しました。
終戦から73年 空襲の記憶を語り継ぐ
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