記事はこちら↓↓↓↓
https://www.sankei.com/article/20250623-B3SS4GKVVNMKFOLZWR46Q4PHX4/
先の大戦で激しい戦闘が行われ、多くの命が奪われた沖縄県。戦後80年、地上戦の経験を語る人も少なくなった。米軍が沖縄に上陸した昭和20年3月、県立農林学校1年だった瀬名波栄喜さん(96)=那覇市在住=は学徒隊に入る寸前だった。命を落とさなかったのは「偶然」。そう語る瀬名波さんに沖縄戦の記憶を尋ねた。(聞き手 鴨川一也)
15歳だった昭和19年4月に農林学校に入りました。英語や化学が学べると期待していましたが、勉強できたのは3カ月くらい。戦況の変化で学生寮や校舎は接収され、立ち入り禁止になりました。
それからは「陣地構築」に駆り出されました。今の米軍嘉手納飛行場の滑走路の整備です。びっくりしたのは当時ブルドーザーがあったこと。「USA」と書いてあった。南方戦線で勝ち取ったようです。われわれはスコップやクワで作業していましたが、文明の利器の威力に驚きました。
手はまめだらけ。勉強どころではありませんでした。最も記憶力があって知識欲が旺盛な時期に勉強できなかった。生涯において大きな損失だったと思います。
20年3月。いよいよ沖縄戦が始まるから最後に親と面会してきなさい、と言われ、本島北部の旧久志村(現在の名護市)の実家に帰りました。
4月のある日、たくさんの兵隊が家の前を通りました。同級生の仲村くんは1年生だったのに、隊列に同級生や先輩を見つけて、部隊に入り込みました。そして、東村で戦死してしまった。私ももし、列の中に友人の姿を見ていたら、潜り込んで戦闘に加わっていたに違いありません。たまたま見つけなかった。その偶然で運命が変わりました。
米軍が迫りつつありました。私は山の中に逃げました。ヤンバルの土地はもろいので、防空壕やガマはありません。山の斜面を利用して隠れたのです。
わずかな食料を食い尽くすと、植物のソテツを食べました。海の方まで山を下り、1本倒して担いで持ち帰るのです。米軍に見つかったら殺される。命がけでした。1日がかりで持ち帰ったソテツの皮を削り、芯をスライスして水につけて日干しし、毒を抜いて食べました。ソテツには猛毒があります。食べ方を知らず死んだ人もおりました。
6月23日頃、南部の戦闘がほぼ終わり、米軍は敗残兵狩りに北部にきました。住民も山の中に逃げました。いま、ニュース映像で見るパレスチナ自治区ガザのように、先頭を争って逃げるのです。奥へ奥へ、子供を大人たちが押しのけて。正常ではありません。
村の区長や班長が「山から下りないと殺されるよ」と言いにきて、ビラもまかれました。7月14日か15日頃でした。一緒にいた人たちは山を下りましたが、私は一人残りました。農林学校で軍人勅諭や戦陣訓をたたき込まれました。「生きて虜囚の辱めを受けず…」と心に刻まれておったのです。捕虜になるものか、と思っていました。
火攻めに遭い、炎と炎の間をくぐり抜け、山を下りると、10頭以上の軍用犬と銃を構えた20人ほどの米兵が待ち受けていました。
「捕虜になるな」
その教えがよぎりましたが、無意識のうちに両手をあげていました。心底、無念でした。
ぶち込まれた収容所で配給されたのは加州米、カリフォルニア米でした。あの味はいまでも忘れられません。約1カ月後、村に帰れました。これが私の沖縄戦です。軍に行った父は戦死、1歳だった末の弟も栄養失調で亡くなりました。
戦死した同級生や自決した学徒たちもおるし、自分もそうだったかもしれません。生きながらえてよかったのか。国のために死んでいった彼らに対して、申し訳ないと思います。戦争で平和は築けません。戦争は破壊者で、自然も文化も人間性も破壊します。
首里城地下にあった旧日本軍第32軍司令部壕の保存と公開を求める活動を行ってきました。いわば沖縄戦の本拠地です。司令部壕には「永遠の語り部」になってほしいのです。人間の記憶は薄らぎ、記録が変わることもある。経験者もいなくなっていきます。残るのは戦跡だけ。戦闘の「砦」ではなく、平和の「砦」になってほしいのです。
【戦後80年】沖縄戦の語り部「司令部壕」を平和の「砦」に
カテゴリ一覧
スポーツ
ニュース
音楽
ラーニング
趣味
グルメ
ガールズ
ゲーム
ギャンブル・宝くじ
エンタメ
アニメ・漫画
どうぶつ