咲き誇る菜の花の周りを、ふわりふわりとチョウが舞う。春が訪れた山道を進むと、唐突にコンクリートの構造物が現れた。コケむした姿は、まるで南米の古代遺跡のようだ。通り抜けた先には何があるのかー。思わず足取りが軽くなる。
熊本県美里町。恋人の聖地として知られる二俣橋近くに通称「八角トンネル」はある。大正4年に開業し、南熊本駅(熊本市)ー砥用(ともち)駅(現美里町)間の28.6kmを走った「熊延(ゆうえん)鉄道」の数少ない遺構のひとつだ。名前は熊本と宮崎県延岡市を結ぶ鉄道として計画されたことに由来する。昭和39年に自動車の普及などにより廃線となった。
八角トンネルは正確にはトンネルではなく、落石から列車を守る「屋根」だった。筒状にせず、輪切り状の構造物を7基連ねたのは、少しでも経費を削減しようとしたためらしい。なぜ穴の形が八角形になったのかは、はっきりしていない。
かつての釈迦院駅(現美里町)跡地に住む林弘明さん(86)は、「普段は乗降客がまばらな駅も、釈迦院で毎年春に行われる花祭りの日は、臨時列車で全国から多くの参拝客が訪れ、にぎやかでした」と振り返る。父親が熊延鉄道に勤務し、母親も駅で切符を販売していたという林さんの思い出話は尽きない。
蒸気機関車の馬力が低いため、急勾配で止まりそうになるほど速度が落ち、飛び降りて手で押したことー。通学時、連結部分で友人との会話に夢中になり、学校につくと白いYシャツがススで真っ黒になっていたことー。
「覚えているのはたわいもないことばかり。でも、今では考えられないでしょ」と林さんは笑う。
トンネルを抜けた先には、穏やかな日差しが注ぐ今も昔も変わらぬ山あいの美しい風景が待っていた。耳を澄ませば、どこからか汽笛の音が聞こえるようだった。 (写真報道局 川口良介)
「八角トンネル」今も汽笛の余韻 熊本県美里町
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