昭和19年8月、東京の下町。永代通りと清澄通りの交差点(現在の江東区門前仲町)にある都電・門前仲町電停前は、リュックサックを背負い防空頭巾と水筒を肩にかけ、集団疎開先の新潟県三条市に出発する数矢国民学校の児童502人と、見送りの家族でごったがえした。
いつまた家族に会えるのか。6年生だった武部和子さんは「涙を拭うと見送る母に分かってしまうと思い、頬を伝うままにしていた」と振り返る。上野駅から乗った列車は、よろい戸が閉められ暗く暑かった。車内ではみんな黙っていた。
戦時中、都市部の生活者に対し、国は子供を地方の親戚などに預ける縁故疎開を推奨した。さらに、本土空襲の激化に備え19年6月には、国民学校の3~6年生を集団で地方の寺や旅館に疎開させる方針を決めた。次世代の兵力を温存するのが国の主な狙いだった。集団疎開の児童は20年4月には約45万人にのぼったという。
親元を離れて田舎での共同生活。空腹やホームシック、シラミ、おねしょ、いじめ…。それでも、「楽しい思い出も残っている」と武部さんの同級生、中村駒江さんは話す。田畑を縫うように歩いて通った学校、身長よりも高く積もる雪…全て初めて見る景色だった。遠足や地元の家に泊まったことも忘れられない。
半年後の20年2月下旬、卒業式を控えた6年生は疎開先から帰京した。3月9日、校舎の前で卒業写真を撮影。その夜、東京大空襲に見舞われた。中村さんは焼夷(しようい)弾の火の玉が飛び交う中を逃げ九死に一生を得た。しかし、友人の多くが犠牲に。疎開して無事だった児童たちも家族を失った。
記憶の風景 戦後70年 あぜ道歩いた学童疎開 新潟県三条市
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