1590年8月9日。豊臣秀吉は会津黒川城に入ります。7月に小田原の北条氏を滅ぼしたばかり。余勢をかって、はるか東北まで軍を進めたのです。秀吉は、黒川城に入ったその日のうちに、大崎義隆・葛西晴信ら、小田原に参陣しなかった東北諸大名の領地没収。そして、奥州仕置の総指揮者として、蒲生氏郷を黒川に入れることを発表します。翌日には検地の実施を命令。わずか3日間の秀吉の会津滞在で、豊臣政権下における東北の未来が決まったのです。当時、この城を手にしていたのは若き伊達政宗。前年6月に蘆名家を滅ぼし、黒川城に入ったばかりでした。政宗は黒川城の門構えや石垣の改修を進めていたとのこと。会津を伊達の本拠にするつもりだったのかもしれません。しかし、豊臣秀吉はこの重要な地を政宗に預けることはしませんでした。会津に入った蒲生氏郷は、黒川城を大改修。曲輪を拡張し石垣を積みあげます。本丸には七重と言われる天守があがりました。氏郷の天守がどの様な姿だったのかはわかりません。おそらく、豊臣秀吉の大坂城と同じような黒い姿。そして金箔の瓦が使われていたことでしょう。こうして、それまで東北にはなかった最新の巨大城郭が出現。会津は、豊臣政権による東北支配の中心都市となったのです。氏郷はこの地の名前を「若松」に変更します。蒲生家の氏神の森からとったと言われています。またこの城は「鶴ヶ城」とも呼ばれますが、今回は若松城で統一しますのでご了承ください。
【会津若松城(鶴ヶ城)】豊臣秀吉が築かせた東北一の城「上杉景勝」が嫌った?理由
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