三方ヶ原の戦いについてはいろいろな説が唱えられております。本動画はその一部を基にしており、史実と異なる場合がありますのでご承知ください。
本動画では信玄本隊が駿河から遠江に入ったと言われている「駿河ルート説」を採用しています。
(※信玄が高天神表から見付に進軍した、10月21日の信玄書状に「高天神城主が降伏したいと言っている」という内容があるなどのことから、信玄がこの頃に遠州におり、甲斐から駿河を通るルートだったのではと言われているものです。)
浜松城の紹介動画はこちら https://youtu.be/i3AvCvfjqxM
二俣城の紹介動画はこちら https://youtu.be/RYbaxNIDg5w
浜松城は徳川家康が29歳から45歳までの17年間を過ごした場所。江戸時代に多くの城主が幕府の重要な役職を務めたことから「出世城」とも呼ばれています。そもそも家康が大変な「出世」をしたわけで、とても縁起よさそうな場所ですね。しかし浜松城にいたころの家康は、周りの「強すぎる」大名たちに囲まれていつ滅ぼされるかわからない状況。天下を統一なんてまったく想像できない、苦しい時期でした。特に厳しかったのが武田信玄との三方ヶ原の戦い。家康の領地深くに攻め込んだ信玄ですが不思議と浜松城を攻撃せず、それにつられた家康が討ち死に寸前の大敗を喫したものです。「領内を通過する敵を見過ごしては名が廃る」と言って出陣した家康ですが、実のところはどうだったのでしょうか。そしてなぜ信玄は浜松城に攻め込まなかったのでしょうか。今回は浜松城と三方ヶ原の戦いについて、みてみます。
【浜松城】「三方ヶ原の戦い」で武田信玄と徳川家康が取り合ったのは湖の畔の小さな城だった?
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