31年前、当時の自民・社会・さきがけによる電撃的な連立政権の発足で、総理大臣の座に就いた村山富市さんが亡くなりました。101歳でした。
トレードマークの長いまゆ毛や、飾り気のない人柄で親しまれました。
“庶民派宰相”と呼ばれたその生涯は、理念と現実の狭間で揺れた1世紀でした。
1924年、大分市で、漁師の家庭の6男として生まれた村山さん。
10代半ばで上京し、働きながら、苦学して進んだ明治大学在学中に徴兵されます。
終戦後、故郷に戻った村山さんは、労働運動を通じて、政界へ。
市議会、県議会を経て、1972年、当時の社会党から衆議院議員に初当選します。
『55年体制』で自民党と対峙するなか、1993年、社会党の委員長に就任し、非自民の細川連立政権に参画。そして、単独で政権を作れなかった自民党や、新党さきがけに担がれる形で、村山内閣は発足します。
時は、米ソの冷戦終結、直後。誰もが歴史の転換を感じていた時代でした。
村山富市総理(1994年)
「いま、求められているのは、イデオロギー論争ではなく、情勢の変化に対応して、闊達な政策論議が展開され、国民の多様な意見が反映される政治。さらに、その政策の実行が、確保される政治であります」
自民党と手を組んだ村山総理は、それまで社会党が掲げてきた方針を、次々、転換していきます。
日米安保体制の堅持を表明。さらに、自衛隊を合憲だとする考えにも大きく舵を切りました。
村山富市総理(1994年)
「私としては、専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると、認識するものであります」
1995年には、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件など、厳しい危機管理が問われる局面が続きます。
その夏、社会党は、参議院選挙で大敗しました。
自民党との連立に“水と油”と批判が集まるなか、村山総理は、終戦の日を迎えました。
村山富市総理(1995年8月15日)
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して、多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもない、この歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて、痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明いたします」
戦後50年の『村山談話』。自らの戦争体験を色濃く映し、『植民地支配』『侵略』『痛切な反省』と『おわび』の言葉を談話に盛り込みました。
2015年、村山さんは、当時をこう述懐しています。
村山富市元総理(2015年2月)
「過ちを繰り返さないためには、過去の歴史というものをしっかり検証する必要がある。日本のために必要だから、あの談話を出したのであって、中国や韓国に謝るために出したわけでもなんでもない。僕は、総理を受けるという腹を決めたときに、この内閣で何ができるか、何をすべきかということを考えた。この内閣でなければできない歴史的な役割が課せられている。そうでなきゃ、僕が総理なんかやる意味ないんですよ」
1996年1月。突然の退陣表明により、村山内閣は、1年6カ月ほどで幕を閉じます。
村山さんに、総理就任を打診した新党さきがけの田中秀征さん。
旧新党さきがけ代表代行 田中秀征氏
「総理になる意欲が一番なかった人。怒ったんだから、僕に『バカにしてるのか』と。だけど、有数の立派な総理大臣だと思う。社会党系の人たちが責めるのは、日の丸と君が代を認めたとか、日米安保と自衛隊を認めたということを言うが、そうせざるを得ない立場に、彼が置かれたということ。それは、本当に申し訳ないと、いまでも思っている。ああやってもらったから、その後、保守と革新が全く正反対で、背中合わせという感じではなくなった。話し合いの余地が生まれた。合意形成の余地が生まれたと思う」
連立当時の自民党総裁・河野洋平さん(88)のコメントです。
河野洋平氏
「村山さんは、持ち前の実直さと信念をもちながら、政権発足直後の日米首脳会談やサミットも立派にこなされ、その後、『村山談話』や『被爆者援護法』など、数々の実績も残されました。昨今のこの政治の混乱について、ご意見をお聞きしたいと思っていた矢先の訃報。残念でなりません」
[テレ朝NEWS] https://news.tv-asahi.co.jp
学徒出陣 労働運動から政界へ…“党の方針”を大きく転換 村山富市元総理が死去【報道ステーション】(2025年10月17日)
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